幸福論 XIII
thehappiness

「幸、聞いてほしいことがあるの」
 母と二人きりでの夕食。母は箸を置いてすこし姿勢を正し、幸に言った。
「どうしたの? あらたまって」
「私がもし再婚するって言ったら、あなたどう思う?」
「……」
 いつかはこうなるとは思っていた。その目を見れば、既に決心をしていることがよく分かる。
 再婚すれば、何かが変わるんだろうか?
 三年前から、丘田達はほとんど毎日のようにこの家に訪れている。再婚したら、一緒に住むようになったりするのだろうか。
 そのとき、丘田のことを、父と呼べるのだろうか。
 今まで親しくできたのは、あくまで他人だったから?
 本当の家族になってしまっても、今のままの関係でいられるのだろうか?

 だが―――
 答えは、決まっている。
 自分のことなんて、どうでもいい。そんなことは、自分さえ、我慢すればいいのだから。
 母がそれで、幸せになれるのなら―――それを邪魔する権利が、誰にあるだろうか。
 にこっ、と幸は笑顔を作って見せる。
「私はもちろん賛成だよ」

 忙しい広岸とはあれ以来会っていない。
 広岸と会えば、きっとこんな不安は無くなるはずなのに。
 生きていることが苦しい。
 広岸に会いたい。そしてこの鬱々とした沼から救い出して欲しい。
 生きていく不安を取り除く唯一の方法。
 そう。
 そうなんだ。
 いままでだってそうしてきた。
 私が私を殺してしまう前に―――彼に会わなければ―――

 晩、丘田たちが遊びに来が、とてもそんな気分になれなかったので、幸は部屋に閉じこもってビデオを見ていた。
 しかし目に入る映像は、上の空だった。
 孤独な空間に流れる、空虚な色と音。

 そうだ、メール。
『ヒロ君、こんばんわっ! 今なにしてるかな〜?』
 ああ―――
 自分とは違うもうひとりの自分がいて、メールを打っている自分を、もうひとりの自分が冷たく見下ろしている。
 くまのぬいぐるみに向けて携帯を投げ捨てる。
 携帯は大きなおなかに跳ね返り、くまの足と足の間に転がり落ちた。
 メールは、返ってこなかった。

 ―――
 ―――
 ―――そして、

 もぞ。
 胸のあたりを這う何かの感触で目が覚めた。同時に、眠ってしまっていたことに気付いた。
 部屋の電気は消されている。
 二時、三時くらいだろうか。はっきりと頭が回らない。
 もぞ。
「……!」
 その“何か”は右の胸の上で円を描くように、ゆっくりと、ぎこちなく動いていく。
 少しずつ意識が戻ってくると、それが、後ろから回されている誰かの手であることが分かった。
 誰か。
 そんなことは、すぐに分かる。こんなことをする可能性のある人間は、一人しかいない。

 雅士だ。

 体中を滑っていく、その手。
「……っ!」
 なに、これ。
 声が上がらない。
 口をふさがれているわけではないのに、声が、出せない。恐くて恐くて、仕方がない―――
 この男は普段から私のことをこんなふうに見ていたんだろうか。
 それはいつごろから?
 あのときも、あのときも、こいつは、この男は、私をそんな目で見ていたの―――

 動揺と、恐怖と、怒りと、
 ああ―――わけわかんないよ。
 どうして私ばかりこんな目に合わなくちゃいけないの?

 気持ち悪い。
 吐きそうだ。
 胸の奥から何かが込みあがってくるのを必死でこらえる。
 その手は、体中をまさぐって、次第に下着の中へ入り込んでくる。

 そうか―――この男は、私が起きていたとしても声を上げられないのを知っているのだ。
 もしここで大声を出そうものなら、母と丘田との仲を裂くことになってしまうから。

 気持ち悪い。
 死んでしまいたい。
 助けて。
 恐いよ。だれか。助けてよ。
 ヒロ君。
 好きだよ。
 だいすきだから、
 いますぐあらわれて、こいつを殴り飛ばして、
 それで、
 こいつに触れられたところをぜんぶそのきれいな手で触りなおして。

 すべてがおわり、
 目が覚めたときには、時計は午前十時を指していた。
 部屋にはもう雅士は―――おらず、からだ中に、あの忌々しい感触だけがはっきりと残っている。
 昨日に、戻りたかった。
 部屋に鍵をかけてベッドに入っていればこんな事にはならなかったし、こうならないための方法はいくらでもあったはずなのに。

 いや、違う。問題はそんなことじゃない。
 ぐちゃぐちゃだ。
 頭の中で色々なものがぐちゃぐちゃと混ざり合って斑模様を描いている。

 ゆっくりと、体を起こす。頭が、がんがんと割れるように痛い。それに、吐き気がする。
 シャワーを浴びなきゃ、と頭では考えているのに、からだに力が入らず、ベッドへそのまま、ばたりと倒れてしまった。
 起き上がろうとするも、そんな気力が、無い。
「ヒロ君……私……もう、だめだよ……」
 涸れた声で、呟いた。
 泣きたかったのに、涙は出なかった。

  *

 ―――広岸、ピアノ弾けるの?
 ―――……また都奈実がバラしたな……。
 ―――なあに、それって、私には知られたくなかったの?
 ―――だって、格好悪いだろ。男のくせにピアノなんて。
 ―――ううん。そんなことないよ。広岸にピアノって、なんだか似合ってる。
 ―――どういう意味だよ……。
 ―――あっ。
 ―――え?
 ―――ほら、また指鳴らしてる。あんまり指ばっかり鳴らしてると、関節太くなっちゃうよ。せっかく、

 そんなにきれいな指なのに。

「―――きし」
 誰かの呼ぶ声。
「起きろ、広岸」
「……」
 顔を上げると、その声は夏雄だった。
 机と頭に挟まれていた左腕に痺れが走った。
「何だ、お前かよ」
「そうだ。俺だ」
「……」
「寝るな」
 と、突っ伏した頭の後ろに夏雄の拳がぶつかる。
「痛てえ……」
「そんなによだれ垂らしやがって。さては幸ちゃんの夢でも見てたな?」
「……」
 幸の、夢?
 そうだっけ。
 何の夢だったのか、さっきまで見ていた夢という薄い膜は現実に溶けて、どこかへ消えてしまった。
「帰るぞ」
 と、夏雄は広岸に背を向けた。

 夏休みはいつの間にか終わっていて、カレンダーに時間割を詰め込むだけの日常がまた動き出した。
 高三の夏休みをすべて、中身のない補習とバイトで埋めてしまった俺に、明日はあるのだろうか。
 来年の今ごろは、一体どうしているのだろう。
 空欄を埋めるためだけに選んだ志望校ですら、受かる保証はどこにもない。

「お前ってさ、ピアノ弾けるんじゃなかったのか?」
 校門を出たあたりで、夏雄は言った。
「どうして?」
「お前、さっきホームルーム寝てただろ。そんときに、文化祭の合唱の伴奏を誰にするかっていう話になったんだよ」
「……ああ」
「そんで、お前を推そうかと思ったんだけど。寝てるやつに押し付けるのってセオリーだろ、やっぱ。でもまあ、他の女子に決まったからやめといたけどな」
 ピアノ。
 そういえばもう四ヶ月、鍵盤に触れてすらいない。
「ピアノなんて、もうやめたよ」
「え……なんでまた」
「……」
 ―――あなたのピアノにはなにもない。
「……なんでだろうな」

 いつもの電車、いつもの車両に乗ると、いつもと同じ場所に都奈実が座っていた。
 座席は全て埋まっていたが、広岸が乗ると都奈実の隣が空き、広岸はそこへ座った。

 向かい側の窓越しに外を眺める。
 田園の地平線が赤く染まり、その地平線に丁度触れるくらいの高さに、橙色に輝く夕陽があった。
 その黄金の光が雲と雲の間に染み込んで、空を夕に焼いている。
 鋭さとあたたかさが満ちたその光が車内を満たすと、あまりの眩しさに広岸は目を細めた。
「きれい」
 都奈実は言った。無邪気なほど素直に、きれい、と。
「鍋焼きうどんの卵みたい」
「ははっ……何だよそれ」
 食べ物と結びつけるあたりが都奈実らしい。
「昔、よく食べに行ったよね」
 と都奈実は懐かしそうにそう呟いてから―――はっと、顔色を変えて気まずそうに黙った。
 触れてはいけない話題。暗黙のうちに出来上がった禁忌。
「そうだな……よく行ったよな、学校帰りに。中学のころは買い食い禁止だったから大変だったな」
「そっ、そうだよねっ……」
 都奈実と、広岸と、必ずそこにいた、あとひとり。

 ほら。
 誰も忘れてなんかいない。
 忘れられるはずが無い。
 あの話題を避けても、避けても、
 それを無視し続ければしつづけるほどに矛盾が生まれてしまう。
 あんなことは忘れてしまいたくて、前に進みたくて、
 都奈実だって、自分だって、必死にもがいてるというのに、
 いつまでもあの影の中から出ることができない。

 そう。こればかりはどうしようもない。逃れることはできるはずがない。
 存在理由。あの過去の未来に、生きているという事実。
 俺がいて、都奈実がいて。
 かつて十子は、そこにいた。

 家に着き、リビングのソファに、無気力に崩れるように倒れ込む。
 寝転んだまま携帯を開くと、幸からのメールが二通。
「……」
 目も通さずに、携帯を閉じ、机の上にほうった。

 なんだろう―――この気持ちは。
 俺は、俺は。

 土曜日。
 夏休みが終わって初めて、幸と会った。たった二週間のことだったが、幸に今までと違う印象を受けた気がしたのは、すこし痩せたせいだろうか。
 幸と会う日がいつもそうであったように、今日もまた、晴れだった。まだ夏のそれを思わせる太陽の陽射しのなか、乾いた風が吹いている。
「久しぶり」
 うん、と幸は答えた。
「すっごいすっごい、ひさしぶり」
 二週間という時間の長さ。
「死んじゃうかと、思ったよ」
 幸は、言った。
「……冗談だよ」

 そして、いつもの場所に向かい、歩き出す。
「だめだよ」
 幸は言い、隣を歩く広岸の左側にまわって、腕を組んだ。
「私が左。ヒロ君は右側だよ」
「どうして」
 広岸が訊ねると、幸はえへへ、と幼く笑う。
「なんとなく、こっちのほうが好きなの」
 と、広岸の手を取り、指と指を絡めて手を握った。
「……あれ」
 幸は、何かに気づいたように。
「指輪、してない」
「あ……悪い。家に忘れてきた」
「そ、そうだよね。忘れることぐらい、あるよね……」
 幸は言い、すこし不器用そうに笑った。

「私はね、」
 部屋に入るなり、ベッドに腰をかけ、幸は床を見つめながら呟いた。弱々しい声。
「いつもヒロ君のことばかりを考えてるよ」
「……」
「ご飯食べてるときも、授業受けてるときも、友達と話してるときも、寝てるときだって、いつも、いつも考えてるんだよ。忘れたときなんてない」
 幸のその様子は、普通ではなかった。広岸は息を呑み、立ち尽くしたままそれに聞き入る。
「私ね、本当は知ってるんだよ。でもヒロ君はやさしいから、そんなことは言わないんだよね。……ありがとう。そういうとこも、私は好きだよ」
 なんてね、などと幸はそれをうやむやにして立ち上がる。
「シャワー、先に浴びるね」
 そう言って広岸の横をすり抜け浴室へ向かう幸の、その手を、
 ぎゅっと、
 握ってそれを引きとめた。
「待って」
 広岸は言い、その手を掴んだままぐっと引き寄せる。少し力が入ってしまったかもしれない。
 きゃ、と小さく声をあげ、幸はベッドにしりもちをつく。
「このままがいい」
「……どうしたの?」
 心配そうに顔を覗き込む幸を、押し倒す。その両手をきつく押さえつけて固定し、馬乗りになった。
「……っ」
 幸の顔が、不安に、歪む。
「え……なに、えっ? なんの冗談? はは……やだな、もう」
 力ずくで服を脱がすと、幸の上半身は下着だけの姿になった。
 幸は弱々しい力で抵抗をしようとしたが、強く押さえられた腕のせいで身動きがとれない。
「や、……やめて、ね? 普通に、しよ? 嫌だよ、こんな……ねえ……お願い、だから」
「……」
 自分でも、わからない。
 興奮しているわけではない。むしろ、自分でも恐ろしいほど正気で、冷静だった。
「ごめん。やっぱり今日は、やめよう」
 すっ、と幸の腕を放し、ベッドから降りて背を向けた。ベッドには、仰向けのままの幸だけが残った。
 泣いているかもしれない。その顔は見なかった。
「……こわかったよ」
 幸は、背中越しに。
「ねえ、ヒロ君、聞いて? 私ね、―――」
「……」
 その続きを、幸は言わなかった。
 しかし、たとえそれに続く言葉が何であったとしても―――それは、もう、きっと。

 あの時も、そう、確かこんな気持ちになったんだ。
 目の前のなにか大きなものが、少しずつ、少しずつくずれて、ゆっくりとおちていくような、この感覚。
 必死に受けとめようとしてるのに、もう砂のように不確かなそれは、指と指の間をとおり抜けて、結局は、もう―――